仙台地方裁判所 昭和58年(ワ)1280号 判決 1988年6月28日
原告 三田村利博
原告 三田村敦子
右両名訴訟代理人弁護士 袴田弘
同 山田忠行
被告 中嶋康彦
右訴訟代理人弁護士 小山田久夫
主文
一 被告は原告らに対し、それぞれ金五九七万四七二四円ずつ及び各内金五四三万一五六八円に対する昭和五九年一月一八日からそれぞれ完済まで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを一〇分し、その九を被告の負担、その一を原告らの負担とする。
四 この判決は、原告ら勝訴部分に限り、仮に執行することができる。
五 被告において、原告らに対し、それぞれ金三〇〇万円ずつの担保を供するときは、右仮執行を免れることができる。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は原告三田村利博に対し、金六八四万一九二一円及び内金六二二万一九二一円に対する昭和五九年一月一八日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告は原告三田村敦子に対し、金六二九万一九二一円及び内金五七二万一九二一円に対する昭和五九年一月一八日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は被告の負担とする。
4 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
3 予備的・仮執行免脱宣言
第二当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
(一) 原告三田村利博(以下「原告利博」という。)は亡三田村亮(昭和五三年一二月一五日生、以下「亮」という。)の父であり、原告三田村敦子(以下「原告敦子」という。)は亮の母である。
(二) 被告は、仙台市東仙台五丁目所在の中嶋病院(以下「本件病院」という。)の開設者であり、訴外中嶋康之(以下「康之医師」という)及び訴外中嶋俊之(以下「俊之医師」という。)は、同病院に勤務する医師である。
なお、現在、本件病院の開設者は医療法人康陽会となっているが、同法人は昭和六二年ころ設立されたもので、それ以前は被告の個人経営であった。
2 交通事故
亮は、昭和五八年八月二八日午後三時四〇分ころ、仙台市荒井字堀口六九番地先路上において、子供用二輪自転車(以下「自転車」という。)に乗って遊んでいたところ、訴外菊地房夫運転の普通貨物自動車に衝突され、路上に転倒して、全身を強く打ったほか、右自転車のハンドルの先端部で臍部左側付近を強打した。
3 診療契約
亮は、同日午後四時一分、救急車で救急病院の指定を受けている本件病院に搬送された。
原告両名は、その際、亮を代理して、被告との間に、亮の診察及び治療を内容とする診療契約(以下「本件診療契約」という。)を締結した。
4 被告の債務不履行
(一) 本件病院における診療の内容及び亮の死亡に至る経緯
(1) 本件病院へ搬送後、康之医師が直ちに亮を診察した。この当時、亮の身体には、左前額部付近の擦過傷、口内挫傷が存したほか、十二指腸と空腸との境界部から四〇センチメートル付近の空腸がほぼ半周にわたって切断されており、臍部左側付近に自転車のハンドルが当たったとみられる直径約三センチメートル、周囲が赤く、内部がやや白色を呈する丸形の打撲痕があり、かつ亮は、大便を失禁していて、泣き続けていた。また、原告敦子は、康之医師に対し、亮が前記のようにして交通事故に遭った事情を告げた。しかし、康之医師は、亮の瞳孔を検査し、胸部の聴、打診、腰部の聴、触診をし、頭部と腹部のレントゲン撮影を行った後、原告敦子に対し、「異常はないが、熱が出たり、吐いたり、尿の色が赤くなったり、ちょっとでもおかしくなったときは、直ぐ病院に来るように。」と指示して、亮を帰宅させた。
(2) 亮は、帰宅途中の車内で眠ってしまい、帰宅後も夕食もとらずに眠り続け、その間ときどき「ウーン」という声を出した。
翌二九日午前四時ころ、原告利博が亮の様子を見に行ったところ、敷布に嘔吐の痕跡があり、顔面は蒼白、手足は冷たく、熱も三七度二分あった。
(3) そこで、原告らは、亮を本件病院に連れて行き、病院到着直後の午前四時五〇分ころ、俊之医師が診察したが、その診察結果によれば、当時における亮の症状は「項部強張なし、瞳孔左右不同なし、対光反射正動、四肢の麻痺なし、バビンスキー反射なし、末梢の脈は微弱、血圧七〇、胸部聴診、雑音なし、唇は紫色」という状態で、急遽康之医師が呼び出されて診察にあたったが、亮の腹部は膨満し、筋性防禦等が存した。
(4) そして、康之医師らは、ここに、汎発性腹膜炎と診断し、手術の必要があると判断して、亮を設備の整った仙台市所在の仙台赤十字病院に転院させる手続きをとった。
(5) 亮は、午前六時ころ救急車で仙台赤十字病院に転送されたが、同病院到着当時の亮の症状は、意識は混濁、口唇にチアノーゼ、血圧低下(測定不能)のショック状態にあり、腹部は膨満、強い筋性防禦が存した。
同病院では、直ちに昇圧剤や点滴等の救急治療が施され、緊急手術が必要との医師の判断に基づいて、午前八時ころから腹部の手術が行われたが、まず開腹手術の結果、十二指腸と空腸との境界部から四〇センチメートル付近の空腸がほぼ半周にわたって切断され、その切断面が並んでいる状態となり、腹腔内に中等度のガス、大量の混濁した褐色の腹水及びとうもろこし、みかん等の食物残滓が存し、空腸破裂に起因する穿孔性腹膜炎であることが確認された。
そして、空腸吻合手術等が行われたが、既に手遅れの状態で、亮は、昭和五八年八月三〇日午前三時一五分死亡した。
(二) 被告の債務不履行
本件においては、初診時に、被告の履行補助者である康之医師が医師としての注意義務を尽くして正しい診断をし、適切な措置を講じていたならば、手遅れの状態にならずに済んだはずのところ、同医師がその義務を怠り、初診時に異常なしとの過った判断をしたうえ、そのまま亮を帰宅させてしまった結果、穿孔性腹膜炎の発見が遅れて手遅れの状態となり、仙台赤十字病院における手術の甲斐もなく、死亡するに至ったものであり、被告には、右初診時の診断及び措置において、診療契約上の債務不履行があった。
5 被告の責任
したがって、被告は、民法四一五条に基づき、亮の相続人である原告らに対し、後記損害を賠償すべき責任がある。
6 損害
(一) 逸失利益 一七四一万三一三七円
亮は、死亡当時満四歳の男児であって、本件被告の債務不履行によって死亡しなかったならば、一八歳から六七歳までの四九年間就労可能であり、その間少なくとも昭和五七年度版賃金センサス産業計、企業規模計、学歴計、男子全年令平均賃金の年額三七九万五二〇〇円の収入を得ることができた。
よって、亮の逸失利益現価を生活費控除率を五〇パーセントとして、ライプニッツ方式で計算すると、頭書金額となる。
3,795,200―年収×(19.0750―67歳までの63年間の現価率-9.8986―18歳までの14年間の現価率)×0.5=17,413,137
(二) 慰謝料 一〇〇〇万円
(三) 相続
原告らは、亮の被告に対する損害賠償請求権を相続によって二分の一ずつ取得した。
(四) 損害の填補
原告らは、訴外菊地房夫運転の車両に付されていた自動車損害賠償責任保険から被害者請求の手続きによって合計二〇〇〇万円の支払いを受けたが、そのうち金一四五五万円を前記(一)、(二)の損害に充当した。
すなわち、自動車損害賠償責任保険の支払基準である同保険損害査定要綱は、「死亡による損害は、葬儀費、逸失利益、死亡本人の慰謝料及び遺族の慰謝料とする。」とした上、葬儀費を四五万円、被害者の父母の慰謝料を合計五〇〇万円と定めている。
原告らは、右保険金二〇〇〇万円のうち、右査定の基準相当額を葬儀費用及び原告ら固有の(近親者の受けた苦痛に対する)慰謝料として受領し、残金一四五五万円を法定相続分に応じて二分の一ずつ亮の損害に充当した。
(五) 弁護士費用
原告らは、本件訴訟を原告ら訴訟代理人両名に委任し、その費用及び報酬として、原告利博が六二万円、原告敦子が五七万円をそれぞれ支払う旨約した。
よって、原告らは、民法四一五条に基づく損害賠償請求として、被告に対し、それぞれ前記(一)、(二)の損害金の残額の二分の一に右各弁護士費用を加算した額の一部である左記各①の金員及び各②の遅延損害金の支払いを求める。
記
(1) 原告利博
① 損害賠償金 六八四万一九二一円
② 遅延損害金 右①から弁護士費用分を控除した金六二二万一九二一円に対する訴状送達の日の翌日である昭和五九年一月一八日から完済まで民法所定の年五分の割合による金員
(2) 原告敦子
① 損害賠償金 六二九万一九二一円
② 遅延損害金 右①から弁護士費用分を控除した金五七二万一九二一円に対する訴状送達の日の翌日である昭和五九年一月一八日から完済まで民法所定の年五分の割合による金員
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2の事実は知らない。
3 同3の事実は認める。
4 同4の(一)については、(1)の事実のうち、康之医師の初診時に臍部左側付近に打撲痕があったとの点、亮が泣き続けていたこと及び原告敦子が康之医師に対して原告ら主張のとおりの交通事故の内容を告げたことは否認し、その余は認める。康之医師は、原告敦子から、亮は午後三時四〇分ころ自転車に乗って遊んでいたところをライトバンに衝突されたということしか聞いていなかった。同(2)の事実は不知、同(3)ないし(5)の事実は認める。
同(二)の主張は争う。
5 同5の主張は争う。
6 同6については、(四)のうちの原告らに対する保険金二〇〇〇万円支払いの点及び(五)のうちの訴訟委任の点は認めるが、その余は争う。
三 抗弁
1 康之医師の無過失
(一) 本件診療の経過
(1) 亮は、前記原告ら主張の日時ころ救急車で本件病院に搬送されてきた。原告敦子は、同日三時四〇分ころ自転車に乗って遊んでいたところをライトバンに衝突されたが、事故の詳しい状況まではわからないと説明した。
(2) 外科の康之医師が診察したところ、意識は正常であり、口内挫傷と顔面及び臍部左側付近に軽度の打撲傷(擦過傷)が認められ、これらの受傷部に軽度の痛みを訴えていたが、他に外傷はなく、嘔吐もなかった。また、結膜に貧血なく、血圧一二〇~七〇mmHg、脈拍九〇/分で、共に正常であり、瞳孔正常で、異常な神経反射もなかった。更に胸腹部の聴打診でも特に異常は認められず、腸雑音も正常であった。そして、触診の結果も、腹部は平坦で柔らかく、筋性防禦は認められず、圧痛やブルンベルグ徴候もなかった。
(3) 右(2)の外部所見をもとに、康之医師は、まず口内挫傷及び顔面と臍部左側の擦過傷を処置し、更に事故による頭部骨折や腹部損傷の有無を確かめるため頭部及び腹部のレントゲン写真検査を行った。
しかし、頭部のレントゲン写真検査では骨折はなく、また立位による腹部レントゲン写真検査の結果でも、横隔膜下に遊離ガスは認められず、その他腸管破裂や腹腔内出血を思わせる異常所見は全く認められなかった。
(4) 以上のような検査所見に鑑みて、康之医師は、原告敦子に対し、診察した限りでは、口内挫傷及び顔面と臍部左側の擦過傷以外特に異常は認められないこと、また、通常の場合、内臓破裂があればレントゲン写真検査で判明し、それなりの症状が出現するものであるが、この時点ではこのような所見がみられないことを説明した。
しかし、康之医師は、同時に、原告敦子に対し、帰宅後は一晩亮の容態の変化をよく経過観察し、
ア 頭部に関しては、頭痛・吐気・嘔吐がないかどうか、意識が正常であるかどうか、その場合寝ていてはっきり判らない場合には起こしてみて意識を確認してみること、
イ 腹に関しては、腹痛を訴えたり、腹が張ってこないか、吐気・嘔吐がないかどうか十分注意すること、
ウ 最初の尿の色が赤くないかどうかを必ず確認すること、
など細かく注意を与え、少しでも頭痛、腹痛、吐気を訴えたり、意識がおかしくなったと感じられるときは、何時でもかまわないから必ず直ちに来院するよう詳しく説明して、亮を帰宅させた。
(5) 翌八月二九日午前四時五〇分ころ、亮は原告らに連れられて来院した。
原告敦子の説明によれば、前日午後八時ころ腹が痛いと泣いたが、打撲によるものと考えて来院しないでいたところ、そのうち原告敦子はうとうととして寝てしまい、午前四時三〇分になって、嘔吐し、うわごとを言っている亮に気づき来院したとのことであった。
(6) そこで、当日本件病院の宿直であった内科の俊之医師が、早速診察したところ、亮の顔色は悪く、脈拍は微弱、最高血圧も七〇mmHgに低下し、ショック状態に陥っており、腹膜炎を起こしているものと診断された。そこで、同医師は、直ちに電話で康之医師に亮の症状を伝え、急いで病院に来るよう連絡した。
(7) 本件病院の隣に住んでいる康之医師は、俊之医師から急報を受けて直ちに同病院にかけつけ、亮を診察したところ、脈拍は触診で七〇/分位であり、腹部は全体に膨満し、筋性防禦が著明に認められ、汎発性腹膜炎と診断された。
(8) そこで、康之医師は、原告らに対し、汎発性腹膜炎を起こしており、一般状態が相当悪化しているため、手術が必要である旨説明した。同医師は、本件病院で手術を行うことも考えたが、応援の医師を呼ぶには相当時間を要することや、一般状態も相当悪化していることから、小児外科のある仙台赤十字病院に転院させることが適切と判断し、同病院外科の桃野医師に連絡して、小児外科の浅倉医師が同病院にいることを確認するとともに、救急車を呼び、ラクテック五〇〇ml(副腎皮質ホルモン)による補液をしながら、午前六時ころ、亮を同病院に転送した。
(二) 康之医師の無過失について
(1) 前記(一)(2)のとおり、康之医師は、全身観察のほか聴、打診をし、触診をしたが、腹部損傷の所見は認められなかった。そして、更に腹部レントゲン写真検査をしたが、遊離ガスを認めなかった。そのため診察上明らかな口内挫傷と臍部下側の擦過傷の処置をし、頭部や腹部臓器については経過を見ることにして原告敦子に経過観察を指示、説明した。
(2) 康之医師は、広く腹部損傷を示す所見がないかどうかを確かめるため診察とレントゲン写真検査を行ったのであり、遊離ガスが認められなかったからといって、小腸を含む腸管破裂の疑いを否定したわけではなかった。原告敦子に経過観察を指示したのは、頭部、腹部の全般にわたり、一晩(翌朝までの十数時間)注意して経過を見守る必要があると考えたからであった。軽症という診断はしていない。
(3) 康之医師は、多年にわたる医学の研鑽と臨床経験から、外科医の常識ともいえる「一定の時間が経過して腹膜炎の症状を起こすことがある。腹部損傷の場合は、消化管穿孔部より消化管内容液が腹腔内に漏出する化膿性腹膜炎、膵液や胆汁の漏出による化学的腹膜炎、あるいは腹腔内にでた血液の刺激によるものである。そして、腹壁筋性防禦、腹壁緊張、腹部膨隆、ブルンベルグ症状を示す。この時期においては腹膜、胸痛、嘔吐などの症状を呈する。」ということを十分に弁えていた。そして、万一腹部損傷があるときは、右のような症状、特に腹痛が経時的に強くなるものであり、しかもそれは比較的初期の段階において患者自身及び付添人に明らかになるものであること及び診察の結果直ちに手術や入院を必要とする傷害の所見が認められなかったことから、康之医師は原告敦子に対し、帰宅して経過を見るように指示したものなのであって、この判断に誤りはない。
(4) 原告らの主張に対する反論
ア 腸管の穿孔、破裂等の腹部損傷が疑われるのは、腹腔内又は後腹膜出血の典型的な症状或いは腹膜刺激症状がある場合である。その場合の疼痛は極めて顕著であり、幼児といえども医師にとってはもとより、通常一般人にも一目瞭然である。そのことは一般に多く見られる虫垂炎等の例でも明かである。
また、事故の態様については、初診時不幸にも康之医師は説明を受けられなかった。原告敦子自身知らなかったのである。脱糞は、精神的ショックのみによってもしばしば起こるものであり、それを以て直ちに腹部損傷の存在が推測されるものではないし、腹部の擦過傷は、遊戯中の転倒や固形物との接触、衝突等で日常頻発するものであり、これまた腹腔内臓器の損傷を強く疑わせるものではない。
もとより本件の場合、頭部、腹部等につき一定時間の経過観察は必要とされたが、入院の適応ではなかった。
イ 本件病院では、腹部に関していえば、腹腔内又は後腹膜出血の典型的症状を呈したり、腹膜刺激症状を示す所見があり、したがって腹部損傷が強く疑われるときは、入院させて、医師自ら経過を観察しているが、このような所見が認められない本件のような場合には、医師が患者本人又は家族に一定時間の経過観察が必要であるということを説明し、万一にも疼痛等の異常が発生したときには、来院するよう指示しているが、かかる措置は他の医療機関と何ら異ならない。
ウ 腹部損傷があるときは、受傷後十数時間以内に疼痛等の異常が発現するものであり、それら異常の発現は家族にも顕著なものである。
本件病院は、二四時間の診療態勢をとっている上、原告らの自宅から同病院までは救急車で約一〇分の距離にあって、来院は容易であり、異常が発生した段階で来院すれば十分に対応できたのである。
ところが、本件では、康之医師の前期指示にもかかわらず、原告敦子は、八月二八日、診察を受けて帰宅後、亮の傍にいなかったばかりか、当夜一二時ころには離れた部屋に就寝し、結局経過観察をしなかったため、異常の発生に気付かないまま時が経過してしまい、翌朝午前四時五〇分ころ、本件病院で診察した時の亮の容態は、前記(一)の(6)ないし(8)に記載のとおりであったのであり、このような腹膜炎の症状を呈するまでには数時間前から激しい腹痛等の症状が現れていたはずで、それは付添いの通常人にも明らかになるものである。急性腹膜炎の場合の腹痛等の症状は、医学の専門的知識のない者にも異常であることが明瞭である。
エ したがって、康之医師が入院の措置をとらなかったことについて過失はない。
(5) 以上のとおりであるから、康之医師には本件の診療について何らの過失もない。
2 過失相殺
(一) 仮に右1の無過失の主張が認められない場合は、亮の死亡は請求原因2記載の交通事故と医療過誤とが原因として競合しているということになり、交通事故の加害車両の運転者と被告の各損害賠償債務はいわゆる不真正連帯債務の関係に立つことになる。
(二) ところで、右両事故の発生については亮又は原告らにも少なからぬ過失があった。即ち、
交通事故は、訴外菊地房夫運転の普通貨物自動車が幅員五・七メートルの市道を直進中、折から自転車に乗って遊んでいた亮運転の自転車が右方の交差道路(幅員四・二メートル)から右自動車の進路直前に突然飛び出した結果発生したもので、いわゆる出合頭の衝突事故であり、亮又はその監督者である原告らの過失は六割を下らないし、また、本件診療に関しても、前記1(一)(4)ウのとおり、原告らは、康之医師の指示に反して、亮の容態についての経過観察を十分に行わなかった過失があり、この過失が腹膜炎の発生とその治療の遅れにつながり、最終的に死亡という重大な結果を招来したものなのである。
(三) このように、原告らの過失が交通事故と医療過誤の両事故の発生と損害の拡大に関与していることが明らかな本件においては、損害賠償額の算定に際しては、損害賠償の公平という見地から、両事故における加害者側の過失と被害者側の過失を総合的に考量して、少なくとも六割の過失相殺がされるべきである。
四 抗弁に対する認否、反論
1 抗弁1について
(一) (一)の事実については、(1)のうちの原告敦子が「事故の詳しい状況まではわからないと説明した。」との部分、(2)のうちの腹部に異常がなかったとの点及び(4)のうちの康之医師の原告敦子に対する説明内容は否認する。
(二) (二)の主張は争う。
(三) 原告らの反論
(1) 非開放性腹部損傷の診断について
ア 近時交通事故が増加するにつれて、非開放性腹部損傷が多くなってきた。
そして、非開放性腹部損傷に際して最も多くみられるものに小腸の破裂がある。
小腸損傷が大腸損傷に比べ圧倒的に多い理由は、大腸はその解剖学的位置関係から大部分が胸郭と骨盤によって保護されているのに対し、小腸は、大腸よりも長く、腹部中心に位置し、腹腔を占める割合が大きい上に、軟部組織である腹壁以外の防禦機構に欠け、直接外力を受け易いためと考えられている。
ところで、小腸、大腸といった腸管損傷で、それが穿孔を伴う場合には、受傷直後から腸管内容の漏出による腹膜炎を生じるため、早期診断、早期治療が不可欠である。なぜなら、腸管破裂の診断遅延は、容易に細菌性ショックを併発し、生命に対する予後を極めて不良にするからである。
したがって、腹部外傷患者を診察するときは、常に腸管損傷の有無を念頭に置いて、腹部の診察を行うことが大切である。
イ 外傷性腸穿孔性腹膜炎の症状は、出血による腹膜刺激のため、ショック症状が早期にみられ、腹壁が緊張し、嘔気、嘔吐が頻発する。
局所所見としては、初めは腹膜炎の固有症状の発現がなく、病状が進行するにつれて、腹部疼痛、圧痛、腹筋緊張、鼓腸等の急性腹膜炎の固有の症状が次第に明らかになり、その範囲も拡大し、全身的にも発熱、嘔気、嘔吐、白血球増加等も著明になる。
腹膜炎症状の出現する時間は、外傷の程度、漏出腸管内容の量、種類、損傷の部位等によっても異なるが、概ね数時間ないし一二時間以内にその症状が著明になってくる。
ウ 非開放性腹部損傷は、前述のように小腸等の腸管の破裂が多くみられるので、診断にあたっては、外傷の臨床経過の把握が極めて重要となる。
非開放性損傷の場合は、ちょっとした表在性損傷としか見えないような程度のものでも、即ち、体表にほんの小さな擦過傷しか残さないような症例でも腸管破裂等を起こしていることがあり、外傷の程度と臓器損傷の程度とは必ずしも平行しないので、外力の方向、外傷を起こした物体を聞き出すことも大切なことである。
しかし、小児の場合は、母親が付いているとは限らないし、たとえ患児が話すとしても表現力等の点から信頼が置きにくく、また、泣いたり、医師の診察を恐れたりして、局所所見がつかみにくい恐れがある。
したがって、小児の場合は、頻回に診察をして、病像を早く把握する必要がある。
エ 一般に腹膜炎の場合には、腹膜刺激症状として、腹痛、悪心、嘔吐、脱水、腹壁緊張、筋性防禦、圧痛、腸音消失、鼓腸、白血球増加等の症状を示し、また、腹部単純レントゲン撮影により小腸内の異常なガス像や水面像を発見することもある。
ここで注意しなければならないのは、小腸は通常ほとんどガスを含んでいないので、小腸穿孔の場合には、いわゆる遊離ガスの出現率は低く、三〇%以下といわれ、遊離ガスを認めなくとも腸管破裂を伴っているものも多いということである。
したがって、遊離ガスが認められないからといって、腸管破裂の疑いを除外することはできない。
オ 以上のとおり、腸管破裂の診断遅延は、容易に細菌性ショックを併発し、極めて重篤な結果を引き起こすから、早期診断、早期治療が不可欠であり、他方、腹膜炎症状の出現には一定の時間が必要で、受傷直後には正確な診断が困難な場合が多いことなどから、「腸管破裂を見過ごさないための最も重要なポイントは、腹腔刺激症状の有無を、少なくとも三〇分位の間隔で診てゆくことである。圧痛、デファンス、腸雑音の減弱や消失等少しでも腹膜炎を疑わせる所見を認めたときは、腹腔穿刺や腹部X線写真など補助診断法を参考に穿孔の有無を確かめなければならない。」(山本修三「腸管」外科MookNo.17「腹部外傷」一三八頁)とされ、経過観察の必要性が指摘されている。
(2) 康之医師の過失
右(1)に述べたとおり、交通事故によって小腸が損傷するケースが少なくないということ、腹膜炎の出現する時間は、外傷の程度、漏出腸管内容の量、種類、部位等によっても異なるが、概ね数時間ないし一二時間以内にその症状が著明になってくるものであって、事故後一時間以内では、小腸が穿孔していても、圧痛、筋性防禦等の腹部所見が明瞭に発現するとは限らないということ、特に四、五歳の子供の場合には、痛み等の症状を医師に的確に訴えることが困難であるということ及び小腸(空腸)穿孔の場合には、レントゲン写真によっても遊離ガスを認めない場合が多いということは、医師において広く知られているところであり、本件初診時に康之医師が亮の腹部を診察したのは、本件交通事故から一時間以内であって、しかも本件は、事故の態様が決して軽微なものではなく、かつ脱糞、腹部打撲等の所見から腹部への外力が加わったことが容易に考えられる症例であったから、康之医師としてはその診断を慎重に行わなければならなかったし、そのためには一定時間の経過観察が不可欠であった。そして、康之医師は、消化器外科の専門医として長い経験を有する医師であるから、右経過観察の必要性については容易に知り得たはずである。
しかるに、康之医師は、右経過観察をしないばかりか、血液検査等基本的な検査さえすることなく、漫然と亮を帰宅させたもので、その過失は明白である。
なお、初診時における康之医師の原告敦子に対する説明は、「異常がない」ことに力点が置かれていたのであって、同医師が腸管損傷の恐れということも考えているなどということを原告敦子に感じさせるような説明のしかたではなかった。
また、本件病院は消防法等にいう救急病院であり、救急病院は一般病院よりも厳しい診療上の注意義務が求められるのであって、この点からも康之医師の過失は明白である。
2 抗弁2について
(一) 抗弁2の主張は争う。
(二) 本件は、康之医師が適切な診療行為を行わなかったために亮が死亡したことについて、被告に診療契約上の債務不履行があったとして損害賠償を求める事件であり、この責任の成否、内容は、交通事故における亮又は原告らの過失の存否とは無関係の事柄なのであるから、交通事故の過失を問題とする原告らの主張はそれ自体失当である。
(三) 康之医師の原告敦子に対する説明は、「異常がない」ことに力点が置かれていたのであり、信頼すべき医師からこのような説明を聞き、「入院する必要がない」という診断を受けた原告らに、亮が夜間痛みのための唸り声か、日頃の寝返りの際に出す声かどうか区別しにくい声をあげたからといって、直ちに病院に連れていくことを求めるのは、余りにも苛酷であって、医師として恥ずべき責任転嫁といわざるを得ない。医師が素人に診断遅延が容易に重篤な結果を引き起こす腸管破裂の症状発現の観察を委ねようとすることの誤りは明白であり、いささかの過失相殺も許されない。
第三証拠《省略》
理由
一 (当事者)
請求原因1の事実については当事者間に争いがなく、《証拠省略》によれば、本件病院は消化器外科を専攻として標榜する康之医師、内科医である被告(康之医師の父)及び俊之医師(康之医師の弟)のほか、非常勤の医師約六名、看護婦約二八名、患者約八二名の収容施設を有する救急病院の指定を受けた病院であったことが認められる。
二 (交通事故)
《証拠省略》によれば、亮は、昭和五八年八月二八日午後三時四〇分ころ、自宅付近である仙台市荒井字堀口六九番地先の交通整理の行われていない交差点付近において、自転車に乗って遊んでいたところ、普通貨物自動車を運転して七郷小学校方面から霞目方面に向い時速約四〇キロメートルで直進して来た訴外菊地房夫が、同交差点の手前一一・五メートルの地点で折から進行方向右方道路から同交差点に進入してきた亮を発見し、急制動の措置を講じたが、及ばず、自車を亮運転の自転車に衝突させ、亮は路上に転倒して、全身を打ったほか、右自転車のハンドルの先端部で腹部臍左側部分を強打し、左前額部付近擦過傷、口内挫傷のほか、腹部打撲、擦過傷、十二指腸と空腸の境界部から四〇センチメートル付近の空腸部がほぼ半周にわたって切断される傷害を負ったことが認められる。
三 (診療契約)
請求原因3の事実については当事者間に争いがない。
四 (本件病院における診療の内容及び亮の死亡に至る経緯)
請求原因4(一)(1)の事実中、康之医師の初診時に亮には腹部臍左側付近に打撲痕があったこと、亮はその間泣き続けていたこと及び原告敦子が亮の交通事故の内容を告げたことを除くその余の事実並びに同(3)ないし(5)の事実は当事者間に争いがなく、これらの事実と《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。
(1) 康之医師は、前記亮の本件病院への収容後から同日午後四時三〇分ころまでの間、亮の診察に当たったが、亮は、その際、左前額部付近に擦過傷、口内に挫傷、腹部臍左側付近に直径約三センチメートルで、周囲が赤く、内部がやや白色を呈する丸形の打撲傷、擦過傷があり、また大便を失禁していた。
亮は、右収容当時、泣いていたが、康之医師の診察中、一旦泣き止んだ。
(2) 原告敦子は、康之医師の右診察に際し、康之医師に対し、亮は同日午後三時四〇分ころ前記現場において自転車に乗り遊んでいたところ普通貨物自動車に衝突され路上に転倒した旨を告げたが、原告敦子は、右交通事故当時右現場に居合わせていたものではなく、また、訴外菊地房夫からその状況の詳細を聞くに至っていなかったので、その詳細について告げることはできなかった。
(3) 康之医師は、右診察に際し、亮の瞳孔を検査し、胸部の聴打診及び腹部の聴触診をし、頭部及び腹部(立位)のレントゲン撮影等を行ったが、亮はその際嘔吐はなく、結膜に貧血はなく、血圧一二〇~七〇mmHg脈拍九〇/分で、いずれも正常値を示しており、瞳孔は正常であり、異常な神経反射はなく、腸雑音が聴取されていたから、その消失は存せず、腹部は軟かく、筋性反応、圧痛、ブルンベルグ徴候はいずれもなかった。また、腹部レントゲン写真において横隔膜下に遊離ガスは認められなかった。
そこで、康之医師は、右原告敦子から聴取した以外に詳細な交通事故の態様、ことに腹部に対する打撃の内容及び程度について問診することはしなかった。
そして、康之医師は、亮について腸管破裂を思わせる異常所見はないものと判断し、かつ亮について自ら暫らく腹膜刺激症状の発現の有無の経過を観察するとか、血液について白血球の数の変化の経過を観察するとか、そのため直ちに入院措置をとるとかの必要性はいずれもないものと診断した。
そこで、康之医師は、同日午後四時三〇分ころ、原告敦子に対し、「亮には異常はないが、熱が出たり、吐いたり、尿の色が赤くなったり、ちょっとでもおかしくなったときは、すぐ本件病院に来るように。」と告げて、亮を自宅において経過を診ることを指示した。
(4) 亮は、同日午後六時ころ原告敦子及び同利博と共に本件病院を出発し、同日午後六時三〇分ころ自宅に着き、みかん等のジュースを飲んだ後、直ちに自宅寝室において臥床した。原告敦子及び同利博は、翌二九日午前二時ころまで亮の状態を観察していたが、亮は、その間、眠り続け、ときどき唸るような声を出していたものの、原告らは、亮に右康之医師の言ったおかしい状態が出たものと思うに至らなかった。
原告敦子及び同利博は、右二九日午前二時ころ右寝室の隣室に就寝したが、同日午前四時ころ再び亮の様子を見たところ、顔面は蒼白で、手足に触れると冷たく感じられ、体温三七度二分であり、寝具に嘔吐の痕跡があった。そこで、原告敦子がそのころ本件病院に対し、電話で、亮の容態が急変したことを告げたうえ、原告敦子及び同利博は直ちに亮を自動車に乗せて、本件病院に向かい、同日午前四時五〇分ころ本件病院に到着した。
(5) 俊之医師が、同日午前四時五〇分ころ、右亮を診察したところ、亮は、項部拡張なし、瞳孔左右不同なし、対光反射正動、四肢の麻痺なし、バビンスキー反射なし、胸部聴診雑音なし、末梢脈拍微弱、最高血圧七〇mmHg、唇は紫色という状態であった。
次いで、康之医師が診察したところ、亮には腹部膨満、筋性防禦が認められた。
そこで康之医師は、ここに亮について汎発性腹膜炎と診断し、開腹、修復手術が必要と判断した。しかし、康之医師は、右手術は、本件病院より設備の整った仙台市所在仙台赤十字病院でこれを行うのが適当と考えて、その転院の手続きをした。
亮は、救急車で本件病院から搬送され、同日午前六時ころ仙台赤十字病院に収容され、小児外科を専攻する医師浅倉義弘らが診察に当たったが、亮は、意識混濁し、口唇にチアノーゼがあり、血圧が低下して測定不能のショック状態にあり、腹部は膨満し、強い筋性防禦が存した。浅倉医師らは、同日午前七時四五分ころ、腹部の手術にとりかかり、まず開腹手術を実施したが、その結果、亮は、十二指腸と空腸との境界部から四〇センチメートル付近の空腸がほぼ半分破裂して口を開け、腹腔内にガスと共に汚染した褐色の混濁した腹水が中程度に存し、みかん、とうもろこし等の食物残滓があり、小腸には相当程度癒着が認められる状態であって、穿孔性腹膜炎を起こしていた。浅倉医師らは、引続き亮に空腸吻合手術を行い、更に術後の治療に当たったが、亮は、翌八月三〇日午前三時一五分、穿孔性腹膜炎により死亡した。
五 (被告の債務不履行責任)
1 《証拠省略》を総合すれば、以下の事実を認めることができる。《証拠判断省略》
(1) 臨床医学において、腹壁に出血創を伴わない損傷である非開放性腹部損傷は、転落衝突、転倒、接触等の外傷機転によるが、開放性腹部損傷よりも頻度が高く、その原因としては、交通事故が多くなりつつあり、また、外傷の程度と臓器損傷の程度とは必ずしも平行しないとされている。
腸管損傷の形態には、①腸壁の全層に障害を受けて穿孔するものと、②腸壁の一部に障害を受けて漿膜又は筋層の断裂や腸壁内血腫を形成するが、穿孔を伴わないものとの二つの形態がある。
(2) 小腸穿孔の治療は、比較的容易であるとされ、周囲組織の挫滅がなく、循環障害を伴わない単純な破裂の場合は、破裂部を縫合閉鎖するのみでよく、破裂部辺縁の組織が挫滅されている場合は、これを切除して縫合すればよく、小腸損傷のみの場合は、通常、手術操作終了後、腹腔内を十分生理食塩水で洗浄し、新鮮例ではドレーンを挿入する必要はないが、破裂後時間を経過し、腹腔内汚染の強いものでは、ドレーンを挿入することがある。
(3) しかし、一定の時間が経過して、腹膜炎の症状を起こすことがあり、それは、消化管穿孔部から消化管内容液が腹腔内に漏出する化膿性腹膜炎等によるものであり、したがって、その治療に当たっては、早期開腹手術、抗生物質の投与、適当な輸血、術後の注意深い観察が肝要であるが、最も重要なことは、緊急開腹手術の適応をきめることであるとされている。
ところで、非開放性腹部損傷において、腸管に穿孔をきたしたときには、腹痛、胸痛、嘔吐、腹壁筋性防禦、腹壁緊張、ブルンベルグ徴候を示し、汎発性腹膜炎を起こせば、腹部全体に圧痛がみられ、腸音消失等の腹膜刺激症状を呈するに至るのであるが、この腹膜刺激症状の発現時期については、「受傷直後の一時性ショックと一過性の疼痛がおさまってから数時間経過してから腹膜刺激症状を起こす」とする見解が有力である。
一般に、腸管破裂の場合には、腹腔内遊離ガス像(気腹像)が認められるが、小腸は通常ほとんどガスを含んでいないので、小腸破裂の場合には、気腹像の発現が遅れることがあり、したがって、気腹像がないからといって、腸管破裂の疑いを除外することはできない。
また、内腔臓器損傷の場合は、初期には白血球の変動はそれほど著しくないが、時期の経過に従って腹膜炎を起こすと白血球は増加をきたすとされている。
2 右認定の事実に鑑みると、診断に当たる臨床医師としては、右外傷機転を受傷者及び目撃者から詳しく聴き、腹部のどの部分に、どの方向から、どのような外力が加えられたかを十分に理解するよう注意し、それが不明の場合には、より慎重な診断態度をとるべきである。そして、また、腹膜刺激症状は、受傷後約数時間経過後に発現することがあるから、受傷後約一時間経過後の所見において、腹壁筋性防禦、腹壁緊張、ブルンベルグ徴候、腸音消失、腹痛等の腹膜刺激症状を呈しておらず、かつ気腹像が認められないからといって、直ちに腸管破裂の疑いを除外すべきではなく、更に自ら右受傷後数時間にわたり―腹腔内損傷がもはやないと診断されるまで―頻回に即ち三〇分ないし一時間毎に、右腹膜刺激症状の発現の有無を観察し、著明な腹膜刺激症状を呈し、それが一定時間持続するときは、緊急開腹手術の適応として、これを行うべき注意義務があるということができる。
3 そこで、右の考え方に基づいて本件を検討してみるに、前示のように康之医師は、亮の前記初診時に、原告敦子から、亮の受傷機転が自転車に乗っていて普通貨物自動車と衝突したものであることのみを知らされたものの、それ以上の腹部に対する打撃の有無、態様、程度についての確認はできなかったこと、亮は幼児であって、症状を正確に表現することは困難であること、亮の身体には大便の失禁と腹部臍左側付近に打撲痕が認められたこと及び初診は右事故から約一時間経過したに過ぎない時期に行われたものであるということ、以上の諸点を総合すると、亮に腹膜刺激症状が認められず、腹部レントゲン写真に遊離ガスが認められなかったとしても、康之医師には、安易に腸管破裂を否定せず、更に自ら頻回に注意深く診察、検査すべき義務があったというべきところ、康之医師は自ら経過観察を行おうとせず、それを原告敦子らに委ねたに過ぎないのであるから、臨床医としての診療上の義務を尽くしたとはいえないものである。被告は、異状の発現は家族にも顕著なものであると主張するが、現に本件でそうであったように、専門医には顕著と考えられる症状であっても、医学の専門的知識のない者には異状か否かの判断は困難と考えられるのであって、被告の右主張は首肯し難いものである。
4 ほかに本件において康之医師が自ら経過観察をしなかったことについてやむを得ない事情があったと認めるべき証拠もなく、被告の抗弁1の主張は失当である。
5 以上認定のとおり、本件においては被告の履行補助者である康之医師に経過観察の懈怠という診療上の注意義務違反が認められ、かつ、前記認定の本件の事実経過及び亮の症状に鑑みると、康之医師が自ら経過観察を行って、適時に手術が行われていたならば、亮は死亡せずに済んだものと推定されるので、康之医師の注意義務違反と亮の死亡との間の因果関係も認められるから、被告は、民法四一五条に基づく債務不履行責任として、亮の死亡による損害を賠償すべき責任があると判断される。
六 (損害)
1 逸失利益
原告ら指摘の賃金センサスの数値が原告主張のとおりであることは公刊の資料によって当裁判所に顕著であり、原告ら主張の方式で計算すると亮の死亡による逸失利益の死亡時における現価は原告ら主張のとおりと認められる。
2 慰謝料
亮の死亡時の年令、本件債務不履行の態様その他本件口頭弁論に現れた一切の事情を考慮すれば、亮の死亡による慰謝料としては八〇〇万円が相当である。
3 相続
原告らが亮の父母であることは前示のとおりであるから、原告ら主張のとおりの相続の事実が認められる。
4 損害の填補
本件の交通事故による損害の賠償として自動車損害賠償責任保険から原告らに対し合計二〇〇〇万円が支払われたことについては当事者間に争いがなく、原告ら指摘の自動車損害賠償責任保険査定要綱の中に原告ら主張の趣旨の定めのあることは公刊の資料によって当裁判所に顕著であり、右保険金二〇〇〇万円のうち葬儀費四五万円及び父母の慰謝料五〇〇万円は亮の前記1、2の損害の填補金とはいえない旨の主張は相当と判断される。
5 過失相殺
(一) 被告は、損害賠償額の算定に際しては、本件交通事故における原告側の過失も斟酌すべきであると主張するが、本訴においてその存否が争われている被告の責任は亮の死亡による損害についての賠償責任であり、しかも、前示のとおり、亮の死亡という結果は康之医師が診療上の注意義務を尽くしてさえいれば発生せずに済んだものと判断されるのであるから、そもそも診療の対象となった傷害が誰の責任で発生したのかということは、被告の右債務不履行に基づく損害賠償責任の存否のみならず、損害賠償額を算定するについてなんら斟酌すべき事項ではないと判断される。
しかも、本件においては、前記認定のとおり、亮の死亡による損害の合計額二五四一万三一三七円のうちその六割近い一四五五万円が交通事故による損害として自動車損害賠償責任保険の支払保険金によって填補済みなのであるから、その残額の損害賠償責任を考えるについて更に交通事故の点を斟酌して賠償額の減額をしなければ公平の理念に反するなどということは全くないものである。
したがって、交通事故についての原告側の過失の有無等を検討するまでもなく、被告の右主張は失当である。
(二) 更に被告は、損害賠償額の算定に際して斟酌すべき原告らの過失として、原告らには康之から指示された経過観察を怠った過失があるとも主張するが、康之医師は前記亮の初診時に原告敦子に対し、「亮には異状はないが、熱が出たり吐いたり、尿の色が赤くなったり、ちょっとでもおかしくなったときはすぐ本件病院に来るように」と告げて、亮を自宅において経過を見るように指示したこと、原告らは前記昭和五八年八月二九日午前二時ころから同日午前四時ころまでの間前記亮の容態の変化に気付かなかったことは前示のとおりであるが、原告らは、腸管破裂に基づく腹膜炎に伴う腹膜刺激症状についての医学的知識がないことは、本件弁論の全趣旨により明らかであるから、原告らが右亮の容態の変化に気付かなかったことを以て原告らの過失ということはできない。
(三) よって、抗弁2の過失相殺の主張は失当である。
6 弁護士費用
以上説示したところによれば、原告らがそれぞれ相続によって取得したと主張する被告に対する亮の逸失利益及び慰謝料についての損害賠償請求権については、そのうち前記認定の合計額である二五四一万三一三七円から自動車損害賠償責任保険による填補金一四五五万円を控除した残額である一〇八六万三一三七円のそれぞれ二分の一に当たる金五四三万一五六八円ずつについてその請求を認容すべきものと判断されるところ、原告らが本件訴訟を原告ら訴訟代理人の弁護士両名に委任したことは当事者間に争いがなく、本訴請求の内容、訴訟の経過、右損害についての認容額に照らすと原告ら主張の各弁護士費用のうち右損害についての認容額の一割に相当する各五四万三一五六円ずつを本件債務不履行による損害と認め、認容額に加算するのが相当と判断される。
七 (結論)
以上の次第で、被告は、原告らに対し、債務不履行に基づく損害賠償金として、それぞれ五九七万四七二四円ずつ及びこの各金額から弁護士費用分の各五四万三一五六円を控除した残額である各五四三万一五六八円に対する訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかな昭和五九年一月一八日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。
よって、原告らの本訴請求は、右の限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条一項本文を、仮執行の宣言及びその免脱宣言につき同法一九六条一項、三項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 磯部喬 裁判官 遠藤きみ 五戸雅彰)